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調査コラム〜史料調査の現場から

(2022年1月11日更新)

『松江市史』編纂事業が終了し、史料編纂課・松江城研究室は、令和2年(2020)4月から史料調査課・松江城調査研究室として再出発しました。そこでコラムもタイトルを一新し、史料調査課・松江城研究室合同で執筆しています。→「調査コラム」バックナンバーはこちら

「市史編纂コラム」バックナンバーも引き続き公開しているほか、『松江市史料編纂コラム』として令和2年1月31日に冊子化しています。

第16回

松江城はいつから「松江城」と呼ばれるようになったのか?

 松江城はいつから「松江城」と呼ばれるようになったのでしょうか。

 ふと疑問に思い、歴史調査の専門部署である松江市史料調査課・松江城調査研究室の職員や松江の歴史に詳しい何人かに聞いてみましたが、これまで気にとめたこともない質問だったようです。


 私の考えを先に言えば、解決の糸口は幕府収納出雲国絵図にあります。

 幕府収納出雲国絵図には藩主たちが居する居城が記されています。これらを年代順に並べてみると、寛永10年(1633)の出雲国絵図(東京大学総合図書館蔵・南葵文庫)【図1】では「末次城」、同年の出雲国絵図(岡山大学附属図書館蔵・池田家文庫)【図2】では「末次」、寛永15年(1638)の出雲国絵図(古代出雲歴史博物館蔵)【図3】では天守の景観描写のみ、正保2年(1645)の出雲国絵図(国立公文書館、島根県立古代出雲歴史博物館蔵)では「松江城」、宝永期(1704〜1711)の出雲国絵図(島根大学附属図書館蔵)では「松江城」、天保期(1830〜1844)の出雲国絵図(国立公文書館蔵)では「松江城」と記されています。「官庫の絵図」とも称される幕府収納国絵図の性格を考えれば、公式には、寛永10年(1633)時点では「末次城」と呼ばれていた出雲国の居城城郭が、遅くとも正保2年(1645)には「松江城」と呼ばれており、今日につながっていることが分かります。

【図1】寛永10年の出雲国絵図、末次城とある

【図1】寛永10年の出雲国絵図(部分)(東京大学総合図書館蔵・南葵文庫)

【図2】寛永10年の出雲国絵図、末次と表記

【図2】寛永10年の出雲国絵図(部分)(岡山大学附属図書館蔵・池田家文庫)

【図3】寛永15年の出雲国絵図、天守の描写のみ

【図3】寛永15年の出雲国絵図(部分)(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)


 これらの出雲国絵図の存在はよく知られているところで、『松江市史』史料編11「絵図・地図」でも全てカラー刷りで紹介されています。ですので、寛永10年の出雲国絵図(南葵文庫)では今日の松江城に「末次城」と記されていることをご存じの方は多いのだと思います。でも、松江城は堀尾氏の時代には「末次城」と呼ばれていた、と言い切ってしまうと、驚かれる方も多いのではないでしょうか。


 少し国絵図の世界に入り込んでみましょう。

 国単位で描かれた近世の国絵図には、江戸幕府が国家的な地図事業として収納した絵図、藩が藩政用に作成した絵図、またその控(ひかえ)、写(うつし)など多く現存しますが、幕府収納国絵図は基本的な図示内容と絵図様式が全国的に統一されており、その表記には幕府の軍用的な要請も反映されています。

 幕府が諸国の国絵図を収納したのは慶長、正保、元禄、天保期ですが、寛永期にも二度の収納があったことが明らかになっています。


 寛永10年(1633)、幕府は初めて全国へ国廻り上使(巡見使)を派遣して国情の巡察を行いました。国廻りは3人1組の6班(畿内・南海、関東・東海、中国、九州、北国、奥州・出羽)が組まれ、巡察を通じて諸国の国絵図が徴収されました。各組の上使らは約400人前後の従者を引き連れており、巡見使の主要な任務は諸国の政情監察、道筋と国境の見分、それに元和の「一国一城令」遵守の見届け、古城の見分であったとされています。この巡見使によって幕府が収納した国絵図では、大名の居城表現に■に○の惣構方郭型を用いて城名を記し、居城とは別に「古城」を記しています。

 堀尾氏の重臣である堀尾但馬が記した「堀尾古記」寛永10年の記事には、巡見使入国に先立ち伯耆国米子(鳥取県米子市)へ「出雲ノ絵図」を持参し、出雲国の様子を説明したことが次のように記されています。

一、市橋伊豆殿・柘植平右衛門尉殿・村越七郎右衛門尉殿、四月廿四日午ノ刻ニ伯州米子へ御着被成候、則出雲ノ絵図持にて但馬罷出、国之様子申上候、廿五日ノ晩ニ米子御出船被成、廿六日ノ辰ノ刻雲州美保関へ御着岸、但馬・主水御さきへ参候、廿九日之夜丑ノ刻御三殿美保関御出船被成、隠岐国ノ島前へ御渡海

五月十三日ノ夜隠岐国千波村より御出船被成、十四日ノ巳ノ刻ニ雲州かゝ浦へ御着被成候、六月朔日ニ石州へ御通

 この記録によれば、寛永10年4月24日から同年6月1日にかけて、正使市橋伊豆(長政)、副使柘植平右衛門及び村越七郎右衛門が米子を経由して隠岐国と出雲国を巡察し、次の巡察地である石見国に向かったことが分かります。

 4月24日に米子へ巡見使が着くと、堀尾但馬は「出雲ノ絵図」を持参し、「国之様子」を説明しています。この「出雲ノ絵図」が巡見使に上納された国絵図あるいは同様の絵図でしょう。

 寛永10年(1633)の出雲国絵図は堀尾氏が幕府巡見使に上納した絵図を元に作成されたものと考えられています。東京大学総合図書館(南葵文庫)や岡山大学附属図書館(池田家文庫)などに所蔵されている寛永10年の出雲国絵図に記された「末次城」あるいは「末次」は、堀尾但馬が「出雲ノ絵図」を用いて「国之様子」の一つとして巡見使に伝えたであろう堀尾氏の居城の名称と考えるのが合理的です。


 その後、島原の乱(寛永14年10月〜15年2月)での軍勢派遣の経験から、幕府は寛永10年の中国筋国絵図は交通情報が不足していたとし、寛永15年(1638)に中国筋諸国(但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐、播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門)に限って急ぎ絵図の提出を求めたようです。この国絵図では、天守を描く景観描写で居城を示し、名称は記されていません。


 寛永15年(1638)から6年後の正保元年(1644)、将軍徳川家光の命で全国一斉の本格的な国絵図事業が開始されました。正保国絵図事業の特徴は、将軍と幕府の威信を諸大名に示し、領国や居城は将軍からの預かりものであることを知らしめることにあり、国絵図、郷帳とともに城絵図、道帳の提出が求められました。幕府はきめ細かな作成基準を示し、縮尺や様式の全国的統一を図っています。

 正保期の出雲国絵図として、国立公文書館所蔵の「正保出雲国隠岐国絵図」【図4】、島根県立古代出雲歴史博物館所蔵の「正保出雲国・隠岐国絵図」を併せて見ると、居城は「松江城」と記されています。また、正保城絵図と称される「出雲国松江城絵図」(国立公文書館蔵)【図5】には「出雲国松江城松平出羽守」【図6】と記されています。正保期の出雲国絵図、城絵図の提出者(絵図元)は松平出羽守直政で、記録によれば、直政は正保2年(1645)に絵図を幕府に納めたようです。

 幕府の国絵図事業は、その後、元禄期(元禄10年〜/1697〜)、天保期(天保6年〜/1835〜)と2度行われますが、宝永期(元禄期、※『松江市史』史料編11「絵図・地図」参照)、天保期の出雲国絵図に見られる居城の名称は「松江城」です【図7】【図8】。

【図4】正保2年の出雲国・隠岐国絵図、松江j城とある

【図4】正保2年の出雲国・隠岐国絵図(部分)(国立公文書館蔵)

 大橋の北側には「松江城」「末次町」、大橋と天神橋の間には「松江町」、天神橋の南側には「足軽町」と記されている。大橋付近から西向きの水路(朱線)には「松江城下ヨリ平田マデ六里」と記されている(東向きには「伯耆国米子マデ松江城下ヨリ渡海七里」と記されている)。正保城絵図(「出雲国松江城絵図」)に示された松江の城下町域は、本図では「松江城下」「末次町」「松江町」「足軽町」と区別して表示していたことが分かる。

【図5】正保城絵図

【図5】正保城絵図(「出雲国松江城絵図」国立公文書館蔵)

【図6】正保城絵図に記された提出者名、出雲国松江城、松平出羽守

【図6】正保城絵図(「出雲国松江城絵図」)に記された提出者名

【図7】宝永期の出雲国絵図、松江城とある

【図7】宝永期の出雲国絵図(部分)(島根大学附属図書館蔵)

【図8】天保期の国絵図出雲国、松江城とある

【図8】天保期の国絵図出雲国(部分)(国立公文書館蔵)


 寛永10年(1633)時点では「末次城」と呼ばれていた出雲国の居城城郭が、遅くとも正保2年(1645)には「松江城」と呼ばれていた、という説明は国絵図の世界からの結論です。近世幕藩体制下での幕府収納国絵図の位置づけを考えれば、「松江城」という名称が公式に使われ始めたのは、遅くとも正保2年から、と言えるのではないかと思います。寛永10年の出雲国太守(藩主)は堀尾忠晴で、正保2年の太守は松平直政ですので、松江城は堀尾氏の時代には「末次城」と呼ばれ、松平直政出雲国入部後に「松江城」と呼ばれるようになったという可能性ももしかするとあるのかもしれません。

『松江市史』別編1「松江城」(第八章絵図資料)を見ると、幕府への石垣修理届に添付した絵図、軍学などのために作成された絵図にも「松江城」の表記が見られます。いずれも正保2年以降の絵図です。「雲州松江城図」「出雲国松江城図」「出雲国松江之城石垣」などの表記が確認できますので、松江藩から幕府に向けて提出する書類や、軍学などのために他の城と区別する場合などには、「松江城」と表記していたことがうかがえます。


 ところで、「松江城」という名称が公式に使われ始めたのは、遅くとも正保2年からだとしても、史料を見る限り、松平直政出雲国入部後に出雲国内で「松江城」の名称が広く用いられるようになったという形跡はうかがえません。『松江市史』史料編5〜8「近世I〜IV」を見る限り、「松江城下」という表現が何か所か出てきますが、史料調査課の職員が確認した範囲では、山陰鎮撫使一行の一人、中川禄左衛門が慶応4年(1868/明治元年)に記した「慶応四年正月/中川禄左衛門松江在陣日誌」(『松江市史』史料編8「近世IV」)の中に「松江城」と記されているのが古い事例のようです。近世の文献史料からは、松江城を示す場合は「御城」「御城内」と表現する例が多く見られます。

 恐らく、元和元年(1615)のいわゆる「一国一城令」により居城以外の城は破却されていたことや、松江城が圧倒的な存在であったために、出雲国内の人々にとって、“「城」といえば松江城”という共通認識があったからではないでしょうか。明治時代以降になると、「松江城」という名称が文献によく使われるようになるのも、社会環境の大きな変化により、“「城」といえば松江城”という共通認識が薄れてきたと考えれば当然のことかもしれません。

 ただ、「松江城」という名称が公式に使われ始めたのが遅くとも正保2年からですので、今後、正保2年以降の近世文献史料から、「松江城」の表記が見つかっても不思議ではありません。正保2年以前の近世文献史料から、「松江城」の表記が見つかれば、公式なものかは慎重に判断しなくてはなりませんが、新発見でしょう。


 松江城の別名は「千鳥城」ですが、これは近世の文献史料にも見られる名称です。前に確認した範囲では(『松江市史編纂コラム』第54回「初期松江城天守と千鳥破風」)、松江城を「千鳥城」と記した近世史料は、「千鳥城取立古説」(元禄元年/1688には成立か)、「雲陽大数録」(明和4年〜天明2年/1767〜1782頃)、「出雲私史」(文久2年/1862頃)の3点です。なぜ「千鳥城」と呼ぶようになったのかについては諸説があり、今のところ定説があるわけではありません。が、「松江城」という表現が一般的には広まっていないということを考えれば、近世の出雲国の人々にとって、「千鳥城」は公式名称である「松江城」の別名だったわけではなく、近世文献史料にも見受けられる「御城」の通称として語られていたのかもしれません。「雲陽大数録」には「一、城名亀田山千鳥城」と、「出雲私史」には「(慶長)十六年、内城及び天守閣成る。地を亀田山といひ、城を千鳥城といふ」とあります。


 さて、幕府収納出雲国絵図の表記から、「堀尾忠晴が太守であった寛永10年(1633)時点では『末次城』と呼ばれていた出雲国の居城城郭が、遅くとも松平直政が太守であった正保2年(1645)には『松江城』と呼ばれていた」と理解したわけですが、「末次城」は中世文献史料にもみられる名称です。その所在については論争があり、元松江市文化財課長の岡崎雄二郎さんは、『松江市史』別編「松江城」の中で諸説を紹介し、「これまで、松江城内で戦国期の遺構は確認されてはいないが、末次城は亀田山にあったと考えるのが妥当であろう。」と、結論付けておられます。この考えが正しければ、堀尾氏が松江での居城に「末次城」の名称を引き継いだとしても不思議ではありません。

 ただ、今のところ現在の松江城に「末次城」の名称を付した史料は、寛永10年の出雲国絵図以外に見出せてはいません。今後、新たな史料が確認できることを期待したいと思います。

付記

 今回のコラムでは、慣れ親しんだ「松江城」という名称について考えてみました。外国の人に松江城を紹介する本(バイリンガルガイド)の打ち合わせ中にふと聞いてみたのですが、「松江城はいつから『松江城』と呼ばれるようになったのか?」という質問自体、これまで考えられたこともなかったテーマだったのかもしれません。松江の歴史の奥深さは、気付いてみれば、身近なところにまだまだありそうです。多くの皆様方のご意見をお待ちしています。

 

【参考図書】

  • 川村博忠2002『寛永十年巡検使国絵図:日本六十余州図』柏書房
  • 国絵図研究会2005『国絵図の世界』柏書房
  • 川村博忠2013『江戸幕府撰日本総図の研究』古今書院
  • 『松江市史』史料編11「絵図・地図」
  • 『松江市史』別編1「松江城」
  • 『松江市史』史料編5〜8「近世I〜IV」

※掲載図版は全て『松江市史』史料編11「絵図・地図」より転載

(松江市史料調査課副主任行政専門員/稲田信/2022年1月11日記)

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