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調査コラム〜史料調査の現場から

(2022年7月29日更新)

『松江市史』編纂事業が終了し、史料編纂課と松江城研究室は、令和2年(2020)4月から史料調査課、松江城調査研究室として再出発しました。さらに令和4年(2022)4月から新たに「松江城・史料調査課」となりました。今後も課でこの「調査コラム」を執筆していきます。→「調査コラム」バックナンバーはこちら

「市史編纂コラム」バックナンバーも引き続き公開しているほか、『松江市史料編纂コラム』として令和2年1月31日に冊子化しています。

第24回

松江城にまつわる“怪異な伝説”

はじめに

 松江城山の桜も若葉を出し始めた頃、松江城・史料調査課の寺本康主幹から依頼があった。天守横の説明看板が傷んだので、新設に併せて文章を見直してほしいというものだったが、内容を見て少し困った。説明文は次のようなものだった。(看板は縦書き)


「祈祷櫓(きとうやぐら)」跡

 本丸にあった六つの櫓の一つ。

 築城前には、この櫓の建ったところに塚があり、また榎木を神木とする荒神が祀ってあったところであり、築城時にしばしば石垣が崩壊する怪異が生じた。

「祈祷櫓」の名称は、それを祀りなおし以来毎月この櫓で松江城の安全祈祷を続けたことに由来している。

 この櫓は「東之出し矢倉」とも記されているが幕末頃には伝説に基づいて「コノシロ櫓」とも呼ばれた。

 二階建てで、一階は三間と六間の十八坪、二階は十坪であり、南の武具櫓へは長屋造りの多門で続き、北側へは瓦塀が続いていた。

※コノシロ伝説

 寛永十五年(一六三八)松江松平家初代藩主松平直政公が信州松本から入国し初めて松江城天守閣に登ってみた。最上階の天狗の間までさしかかると、そこに一人の美女が現れ「この城は、わらわが城なり」と言った。直政公は、瞬時に「このしろ(城)が欲しければ明日にでも与えよう」と答えると、女は消えていった。直政公が、魚の「コノシロ」を取り寄せ天狗の間に置かせておくと、その翌朝「コノシロ」を乗せておいた三宝が荒神櫓で発見され「コノシロ」は無くなっていた。その後二度と女が姿を見せることはなかった。この妖女は築城の際の人柱だと噂されたと言うが、直政公の機転力を示すものとしても伝えられている。


 文章は伝説と史実らしき内容が混在しており、違和感はあるものの、祈祷櫓や天守にまつわる“怪異な伝説”は広く伝わっており、Web上などでも様々なバリエーションが見受けられる。

 実は、『松江市史』「松江城」編纂に至る調査や研究では、“怪異な伝説”が取り上げられることはなかったのである。一般的に伝承の中にはただちに史実とは認めがたい場合も多く、歴史研究の側面から見れば胡散くさいものとして扱われがちである。一方で、城に限らず、一昔前までは祈祷やまじないは人々の暮らしの中に隣り合わせで存在していた。科学的な解決方法が進んだ現代でも、時には病を癒したり身のまわりの陰りに対応する薬として、祈祷やまじないは息づいている。古くからの伝承の中には何らかの出来事や人々の考え方を反映している可能性もある。看板の説明文をきっかけに、松江城研究の一環として、松江城にまつわる“怪異な伝説”を身近にある資料で整理してみようと思った。

写真1天守東側の祈祷櫓跡

【写真1】天守東側の祈祷櫓跡

1.松江城にまつわる“怪異な伝説”の基本形

 では、松江城にまつわる”怪異な伝説”はどのように伝えられてきたのだろうか。長くなるが、小泉八雲が記した『知られぬ日本の面影(神国の首都−松江)』、島根県教育会(正井儀之丞、上野富太郎他収集・編集)が出版した『島根県口碑伝説集』、『松江市史』「松江城」刊行以前に松江城を紹介した代表的な2冊の書籍から、記述を抜き出してみよう。


●小泉八雲著、落合貞三郎訳『知られぬ日本の面影』「神国の首都−松江」(『小泉八雲全集』第3巻1926所収)より

 この陰湿な城には、因縁話がある。

 丁度『スカドラの礎』と題する寒比亜の哀れな俗謡に、恐ろしい形見を留めてゐると同様な、一種の原始的蛮習のために、築城の際、何とかいふ神に犠牲として、ある松江の少女が城壁の下へ生埋にされたといふことだ。少女の名は伝わらなかった。美しくて、踊りが好きであったことの外は、何も記憶されてゐない。

 さて、城が出来上ってから、松江の娘は城の附近の街頭では盆踊をすること、一切相成らぬといふ法度が出ねばならなかった。それは、いつも娘の踊るものがあると、御城山が動いて、大きな城が礎から頂まで揺れるからであった。


●島根県教育会(正井儀之丞、上野富太郎他収集・編集)1927『島根県口碑伝説集』「松江」より

  • ギリギリ井戸の由来

 城山本丸に大人の塚と云ふ所がある。此処は工事中石垣を作るけれども夜毎に崩壊すること数度に及んだので、堀って見ると大きな頭骨と槍の身を発見した。依ってその頭蓋骨は市成村に移し、今宮として祭り、槍の身は千酌浦のものが堀出したればその者が持帰りて使用したが鹿突きに頗る妙であった。のち此家のもの槍師の家へ屡出入したが、浦のものには用無き品と件の槍を槍師に送った。槍師はこれは俗家に持居るべき品で無いとて今宮へ奉納した。この因縁より祈祷矢倉を設け、その堀った跡を井戸として頭のぎりぎりに因みてギリギリ井戸と名づけた。

  • このしろ櫓の由来

 寛文十六年直政公は初めて松江に入府し、初めて本丸を見分した。天狗の間に至ると一人の美しい女が現れた。公に向って「この城は妾が城なり」と云った。英気爽颯たる公は「このしろ(コノシロ)が欲しくば漁師に申付けて海より引あげて進らすべし」と云った。怪しい女の姿は煙の如く消えた。爾来公はこのしろを取寄せ本丸荒神櫓へ納めることを例とした。依って此櫓をこのしろ櫓と称することとなった。


●河井忠親1967『松江城』「第二章:松江城の構築とその後:第二、三節」より

  • 工事の困難

 石垣築造の苦心の一挿話として今に伝えられているのがギリギリ井戸の伝説である。慶長十三年(一六〇八)四月末苦心をかさねて築きあげた天守の鬼門にあたる角の石垣が、一大音響と共に崩れてしまった。これは大変と早速築き直しに取りかかった。ところが完成にま近い五月二十七日の夜半再び礎から崩れてしまった。吉晴は奇怪千万なことと、軍師堀尾因幡と協議の上、甲州流の築城家武井四郎兵衛に命じてその原因を調べさせた。武井は地理を見きわめるために崩壊の最もひどい個所を徹底的に堀りさげてみたところ、二米ばかり下から錆びた槍の穂先に貫かれた大きな頭蓋骨が出て来た。吉晴はこの頭蓋骨を叮寧に川津の市成に移しその霊は今宮神社として祀った。そして芦高神社神官松岡兵庫頭周誠をまねき、三日二夜にわたる地割の大祈祷を行い、三度石垣を築いたが今度は途中で崩れる様なこともなく完成をした。一方堀り出した鎗の穂はこれを堀出した人夫に与えたところ、この穂は鹿突きに頗る都合よく珍重がられていたが、後に槍師某の所有となった。槍師はその底気味悪い程にさえ切った穂先の光を見るうちに、これは神器である、私すべきものではないとの感を深うし、これも亦今宮神社に奉納したと伝えられている。尚この頭蓋骨を掘り出した跡は深く堀って井戸として残したという。ギリギリ井戸というのがこれである。併し今は残っていない。ギリギリ井戸とは、この地方でいう、頭のギリギリ(つむじ)に因んだものであるといわれている。

  • 人柱の伝説と天守閣の怪異

 築城にまつわる人柱伝説や、天守閣の怪異等は、殆んどどこの城にもある例であるが、我が松江城天守閣についても亦この種の伝説や怪異が伝えられている。その一つは美しい乙女の人柱である。うら盆の夜、折からの月明に町家の者達は工車中のお城ニノ丸の広場に集って盆踊りをはじめた。大鼓の音と音頭にあわせて、踊の輪は次第次第に人きくなり、夜の更けるのも忘れて踊った。と突然その輪の中の一人の美しい乙女が城中に連れ去られた。人柱としてお城の礎になったのは、この乙女であったと伝えられている。竣工後はじめて盆踊りがまたニノ丸の広場で踊られることになった。そして太鼓の音が高らかにひびくと共に、天守閣がメキメキと無気味なひびきを立て、地震でもないのに天守閣は踊る様にゆれる。「オオお城が踊る、お城が踊る、人柱になったあの美しい乙女の怨霊が、踊りの大鼓の音に迷い出たんだ。」踊の輪は恐怖に崩れ去った。以来城下の盆踊りは禁止になった。このならわしは京極氏にうけつがれ、更に松平氏にうけつがれたといっている。今一つは年老いた虚無僧の人柱である。築城工事とかく捗らず、吉晴も一たん床についたがまだ寝もやらず、アレコレと心をなやましていた折柄、耳に伝わってきたのはどこで誰が吹くのか蕭条たる尺八の音であった。吉晴はとっさに考えた。この尺八の主を人柱にと、早速家士に命じて尺八の主を捕えさせた。捕えられたのは年老いた虚無僧であった。そして虚無帽は、「年老いて先の短い我身、お城のためならよろこんで」と従容として人柱になった。月明の夜など、天守閣のどこからか蕭条たる尺八の悲曲が流れてくることもあったと伝えられている。

 年代はズーツと下って寛永十五年(一六三八)、京極氏断絶の後をうけて松平直政が松江に入府して、はじめて天守閣の検分を行った時の伝説に、こんな物語がある。即ち松平直政が従士を随え天守閣に上った。何分京極家断絶後、城主のないこと一年近くに及んでいたため、手入も十分行とどかず、室の隅には蜘蛛の巣がかかり、何となく一種の妖気さえ動いていたが、根が剛毅の直政のことだから、いささかの恐れもなさず、最上層の天狗の間まで上りつめた、と忽然一人の凄艶な官女があらわれて直政の前に進み出た。従士達は頭から水をブッかけられた如く背筋がゾクゾク無気味さに戦いたが、直政は微笑を含んで、官女に相対した。官女は直政にむかって、「この城は妾が城なるぞ」といたけだかに叫んだ。直政は平然として、「ヨシヨシこのしろが欲しくば漁師に命じてとらせ与えようぞ」と頓智即妙の答をしたところ、怪しい官女はかき消すが如くに消え失せたという。直政は下城すると直ちに漁師に命じてこのしろ(コノシロ)をとらせ、これを荒神櫓に供えた。以後代々の城主も皆これにならって襲封のはじめコノシロを荒神櫓に納めたという。荒神櫓のことを祈祷櫓ともいったことは前にも述べたが、代々コノシロをこの櫓に納めたので、又このしろ櫓ともいったのである。


●島田成矩1985『松江城物語』「二松江城物語(3)築城物語」より

  • 祈祷櫓の由来

『松岡兵庫頭由緒』『柳瀬惣兵衛覚書』『若宮八幡之記録』『赤崎旧記』の史料についてこれらを総合すると、慶長十一年十一月、神多山の神社は遷座を開始した。同十二年に本丸、二の丸の地均し開始し、この時榎本を引き崩し切り取る。同十三年、本丸の石垣築成の工事が開始された。

 本丸の石垣を築いていたとき、奇怪なことが発生した。本丸の東側の石垣の1カ所が、なぜか崩れたので築き直した。しかし再び崩れるなど数度に及んだ。さらに人夫には怪我人が多く出たり、夜中には人が物の怪に襲われるといった種々の怪事が重なったという。そこで近村の諸社諸寺に御祈祷を命じたりしたが一向によい験はなかった。やがて人夫たちは、ここは荒神を祭った榎本の大木があったところだ、その本を切り取ったから、その崇りではないかとうわさしあった。

 そのとき、出雲郷村から来ていた人夫が、私の村の神主は八卦をよく見る人だ、といった。諸役人も賛成したので占いを頼むことになった。芦高神社の神主、松岡兵庫頭は効験之誉があることで有名であった。招かれた神主はさっそくト筮を考えていった。榎木のあった下には髑髏があるはずだと告げたのである。掘ってみると首の骨が出て来た。またそれと一緒に槍の刃も出て来た。こうして石垣が崩れた原因は、荒神と首の崇りであることが判明したのである。そこで榎荒神は法吉山に移して祭り、首は市成村に小祠を建てて祭り直し、今宮と号けて、社領五石が寄進された。首を掘った人は千酌浦の人夫であったので、槍はいったん千酌の家に持ち帰った。しかし剣術師範から、これは名鉾で神器だから家に留めておくものではない、といわれたので、これも今宮に奉納されたという。

 こうして榎荒神と首の跡地は清められ、二夜三日に及ぶ地鎮祭が執り行われ、築城の無事が祈られ、城の石垣工事はついに完成したのである。神主は新しく荒神を祭った。以来、兵庫頭は松江城の神主職を兼ねることになり、毎月二十八日が祭日と定められた。「荒神祭」とともに「御城内御安全之御祈祷」をすることになり、これは永久に執り行われることになった。やがて本丸の天守閣の近くに二階建ての櫓が建てられると、これを祈祷櫓(祈祷と同時に荒神を祭っていたので荒神櫓ともいう)となづけ、この櫓が祈祷所となった。堀尾・京極のあと、松平直政が藩主として入国してからも「御本丸城地安穏之祈祷」が続けられたのであった。

 なお、この由来がもとになったり、この一部の史料が独立したり、一部が変化したりした伝説には、つぎの三つがある。

 ・ギリギリ井戸の由来

 ・天守閣の人柱伝説

 ・このしろ櫓の由来


 これらの書籍の記述からは、小異はあるものの今日伝えられる松江城にまつわる“怪異な伝説”の基本形が理解できる。

2.近世の文献史料に見られる松江城にまつわる“怪異な伝説”について

 では、近世の文献史料には、上記のような近代以降の書籍に記された伝承の元となる記録はあるのだろうか。今回、島田成矩氏が紹介する『松岡兵庫頭由緒』『柳瀬惣兵衛覚書』『若宮八幡之記録』『赤崎旧記』を確認することはできなかったが、「雲陽大数録」(明和4年〔1767〕から天明2年〔1782〕に成立)に次のような記述がある。


●「雲陽大数録」(『松江市史』史料編「近世I」)より

一、今本丸にあたりて大人の塚といふ所有り、此所石垣築けとも夜毎に崩るゝ事数度。よつて堀起見れハ、大ひなる頭骨に鎗の刃一本あり。其頭ハ一成村に移して今宮と祝ひ祭れり。刃ハ千酌浦の人夫堀出したれハ、印に夫を得て数代鹿を突に名矛なり。幸ひ鎗術指南の家へ出入する故此刃を送る。鎗術師範の云、是ハ神器なり、俗家にとゝむへきにあらす。彼今宮に奉納せり。今の祈祷矢倉の所也、此縁を以て祈祷所と定め給ふと云へり。

一、きりきり井、此所大人の塚堀出したる所、其印に井をふかく堀、頭の旋(ぎりぎり)にかたとり後来名とす。此所祈祷矢倉の下なるへき也。


写真2祈祷櫓跡(石垣中央の上)と石垣周辺

【写真2】祈祷櫓跡(石垣中央の上)と石垣周辺


「雲陽大数録」は、祈祷櫓の由来や、「大人の塚」から掘り出された「頭骨」及び「鎗の刃」が一成(市成)村の「今宮」に祀られたと伝えている。また、「大人の塚」を掘った場所には、名前の由来となった「頭の旋(ぎりぎり)」にかたどった井戸(「きりきり井」)が印として深く掘られ、その場所は祈祷櫓の下であろうと伝えている。さらに、「此所祈祷矢倉の下なるへき也」と表現していることから、「きりきり井」は祈祷櫓の下あたりには既に無かったことも伝えている。

「雲陽大数録」が伝える一成村の「今宮」は、西川津の市成に所在した「若宮八幡」のようで、「雲陽誌」(松平綱近の命により黒沢長尚が編纂を行い、享保2年〔1717〕に完成)では、「大人塚」と「若宮八幡」(「今宮」)について次のような記事を記している。


●黒沢長尚編「雲陽誌」(歴史図書社版1976)より

島根郡/松江城府

 城地に大なる榎あり、荒神なりといふ。又大人塚とて古化現の人なりといひ伝る塚ありしを引きならし地形ありけれハ、いろいろ怪異多、成就も滞けるにより意宇郡蘆高の神職松岡兵庫に仰て祈祷し荒神ハ島根郡法吉村に移たてまつり大人塚をは同郡一成村に移て今宮と号し祭ぬ。其後二夜三日地割の祈祷ありて普請成就したり。夫より毎月廿八日本丸にて祈祷あること今にいたれり。同丁未の年、城の普請初、辛亥の年まで五年の間に城は成就したり。

西川津/若宮八幡

 社三尺四方西向祭日八月十五日なり。歳越元朝の祭あり。此社は堀尾帯刀吉晴松江の城をきつきたまふ時地をならしけるに石の嘉龍堂を堀出たり。吉晴聞たまひて城の鎮守のためにとて豊国明神の境内へ移社を建、若宮八幡と号し、すなはち彼嘉龍堂は社の下に納られたり。中にいかなる物のありけるにや知人もなし。


「雲陽誌」が若宮八幡について伝えるには、松江城築城の折、「石の嘉龍堂」が掘り出されたので、城の鎮守のために豊臣秀吉を祀った市成の豊国神社の境内へ若宮八幡を建て、社の下に「石の嘉龍堂」を埋めたという。「石の嘉龍堂」がどのようなものなのかは分からないが、若宮八幡で祀ったのは頭がい骨だけではなく、松江城築城時に掘り出された石棺のようなもの(?)も埋め祀ったという伝承なのだろうか。

『川津郷土史』(川津郷土誌編修委員会1982)などによれば、若宮八幡は豊国神社が堀尾氏により元和2年(1616)に破却された後も同所に所在し、明治42年(1909)に熊野神社に合祀された。『川津郷土史』には、「野津宮司によると、この槍は今も神社にあるとのことである。」とも記されている。「神社にある槍」を実見したわけではないが、松江城(祈祷櫓)にまつわる“怪異な伝説”が近世から現代へとつながっており、興味深い。

 松江城内の城郭施設などを記録した近世の文献史料として、「竹内右兵衛書つけ」、「御城内総間数」がある。「竹内右兵衛書つけ」中の「松江城城郭の部」は延宝7年(1679)頃の成立、「御城内総間数」は「右者明和三丙戌卯月初旬写之者也御破損方」の奥書をもつことから明和3年(1766)に御破損方で書き写されたものである。「祈祷櫓」、「きりきり」の記述がある部分を一部抜粋すると次ようになる。


●「竹内右兵衛書つけ」(『松江市史』別編「松江城」)より

  • (「祈祷櫓」の記述部分:下線筆者、以下同様)

一、同所東之出シ矢倉三間ニ六間也上ノ重ハ弐間半ニ五間半也

一、御天守東ノ出シやくらより下ニ在之塀、西ハ高石垣ニ取付、東へ三間半余、棟東西ニ立テ在リ

  • (「きりきり」の記述部分)

一、きりきり門柱中すミ壱丈弐尺斗、棟東西ニ立、同門東之つまより取付、東へ之塀壱間余、棟東西也

一、きりきり御門番人居所、三間ニ八間、瓦ふき

  • 「御城総間数」(『松江市史』「松江城」)より(「祈祷櫓」の記述部分)

一、御祈祷櫓三間梁桁行六間辰巳ノ方二階作リ

垣高:六間壱尺

法:六間三尺八寸

根足:三間五寸

一、御祈祷櫓下よりきりきり口

台石垣折廻し三拾間

石垣高:弐間半

法:弐間五尺

根足:六尺

  • (「きりきり」の記述部分)

一、右同所よりきりきり御門迄瓦塀覆九拾壱間

但宝暦五申二月、東側不残建直し、南北路ニ成ル

石垣高:五間壱尺

法:五間三尺弐寸

根足:壱間壱尺

一、きりきり御門壱間半

同所南脇板塀覆三間、申二月瓦塀覆ニ成ル

同所御番所:弐間半梁桁行五間

同所薪部屋:壱間半梁桁行三間


 祈祷櫓は建物規模が両史料に記されており、「竹内右兵衛書つけ」からは「御天守東之出シ矢倉」とも呼ばれ、1階は3×2間、2階は2.5×5.5間の二重櫓だったと分かる。

「きりきり御門」という表記は両史料にあり、「雲陽大数録」にも記された祈祷櫓にまつわる“怪異な伝説”が、門の名称につながっていた可能性が想像できる。ちなみに、「きりきり御門」は、今日「馬洗い池」と呼ばれる池の東側にあった門で、近世の城郭絵図などにも描かれている。

 なお、実録の書(近世小説の一ジャンル)として知られる「雲陽秘事記」は、松平直政と「このしろ」にまつわる“怪異な伝説”について次のように記している。


●「雲陽秘事記」(島根県立図書館他所蔵)より

直政公始而御本丸江上り玉ふ事

 寛永十六年、始而御入国有て、大守御本丸江上り給ひけるか、天狗の間、左も美敷女郎顕れて直政公に向ひ、此城ハ我城也ト云けれバ、此時直政公被仰けるは、このしろかほしくバ漁師共ニ申付、海より引かせて進上可申、と有けれバ、彼女郎は書消すことく失せたり

是よりこのしろ(コノシロ)を海より取寄せられ、御本丸下荒神櫓治め玉ふ

依而此櫓をこのしろやくら共いふ


「雲陽秘事記」は、松江松平家初代藩主直政から6代宗衍まで約150年間にわたる、藩主とその周辺の人々の逸話で構成されており、描写の中には史実とは認めがたいことも多く含まれている。伝本が数多く伝わっていることから、秘事記と言いつつ実際にはよく読まれていたことがうかがえ、「このしろ」にまつわる“怪異な伝説”も近世から広く知られた話だったと思われる。(「雲陽秘事記」については、田中則雄2011『松江市ふるさと文庫13』「雲陽秘事記と松江藩の人々」を参照してください)

おわりに

 松江城にまつわる“怪異な伝説”について、身近にある資料で整理してみた。松江城にまつわる“怪異な伝説”の基本形は、仮に名前を付して分けてみると、(1)「城の人柱と盆踊りの伝説」、(2)「祈祷櫓とキリキリ井戸の伝説」、(3)「松平直政と“このしろ”の伝説」である。(2)と(3)は近世の文献史料に見ることが出来る伝説であり、(1)は明治23〜24年(1890-1891)に松江に滞在した小泉八雲が記録している伝説である。(1)(2)(3)の伝説は、いずれも近世から語り継がれた伝説なのだろう。

 このうち、(2)「祈祷櫓とキリキリ井戸の伝説」は、「雲陽大数録」に記されるとともに、「きりきり御門」のように城郭施設名称とつながっている。伝承の背景には、祈祷櫓が建つ高石垣の構築にまつわる出来事、たとえば旧地形との関係で背後の造成土が厚いなどの理由で難工事であったことを示すと解釈できなくはない。また、松江城が築城された亀田山には、中世の文献史料に見られる「末次城」が所在したとの見解や、寺が所在したとの伝承もある。松江城天守地階には元の所在場所は不明だが来待石製の五輪塔・宝篋印塔が保存されている。松江城築城時に頭がい骨や槍の穂先が出土しても不思議ではない。神秘性を持たせた縁起伝説の一種ではあろうが、(2)「祈祷櫓とキリキリ井戸の伝説」は、何らかの出来事が築城時に起こり、祈祷やまじないを通して課題を解決しようとした人々の考え方を反映している可能性は高いのかもしれない。

 いずれにしろ、松江城にまつわる“怪異な伝説”については、現在に至るまで様々な形で発信され、広く知られている。城は常に生死に直面した空間であり、それだけに多くの祈祷やまじないが息づいていた。今後、民俗学や宗教学などの分野からも松江城研究が進むことを期待したい。

 以上、説明看板見直しの話が最初のきっかけだったのだが、文案は上記の松江城にまつわる“怪異な伝説”の整理を反映させていただければと思っている。機会があれば、ぜひ松江城本丸においでいただき、やがて新しくなるはずの看板を見ていただきたい。

追記:その後の情報

 第11回調査コラムで紹介した松江城天守が写る新出写真は、調べる過程で「皇太子嘉仁親王ら明治40年山陰道行啓一行と地元有力者との集合写真」と推定し公開したところ、「山陰中央新報(令和3年10月1日付)」、「毎日新聞(同年10月13日付)」などにより、日本近代史の専門家の見解を求めたうえで報道された。広く周知されたことにより多くの反響があったが、その中で写真史・写真師研究家の森重和雄氏からは、嘉仁親王と想定した人物は東伏見宮依仁親王であり、皇太子の右隣りで東郷平八郎と想定した人物は片岡七郎であるとの指摘を受けた。写真史に造詣の深い貴重なご意見と思われたので、皇族の来訪を改めて調べなおしてみたが、その折には“東伏見宮依仁親王、片岡七郎が松江を訪れ、松永武吉島根県知事・福岡徳世松江市長・多くの通常礼服姿の海軍軍人・多数の地元有力者たちと松江城天守の前で集合写真が撮られる”、という状況を記述したり彷彿させる史料を見つけることができなかった。

 ところが、このたび発刊された『歴史群像』(2022年8月号)において、長南政義氏より、「明治三十九年に海軍大佐東伏見宮依仁親王が海軍中将片岡七郎と共に日本海を巡航した際に松江を訪れており、大正天皇とされた人物は依仁親王、東郷とされた人物は片岡であったのだ。」との指摘を受けた。そこで、明治39年分の「山陰新聞」を詳しく読み進めてみたところ、明治39年7月に東伏見宮依仁親王、片岡七郎が松江を訪れている記事を確認することができた。7月7日(土)付の記事には、東伏見宮依仁親王、片岡七郎も参加しての松江城天守近くで行われた第一艦隊歓迎会の様子や、写真撮影、主賓、来会者についても記されている。間違いなく、東伏見宮依仁親王、片岡七郎は松江城山を訪れており、当時の島根県知事は松永武吉、松江市長は福岡徳世である。多数の海軍軍人、地元有力者の参加も確認できる。前に記したことの繰り返しになるが、松江の歴史の奥深さを示す一枚として、この写真の検討は継続されるべきものと改めて思う。

(松江城・史料調査課副主任行政専門員/稲田信/2022年7月29日記)

お問い合わせ
文化スポーツ部  松江城・史料調査課
電話:0852-55-5959(松江城係)、0852-55-5388(史料調査係)/ファックス:0852-55-5495(松江城係)、0852-55-5495(史料調査係)
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